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ゆく春の歴史

ゆく春の師系(4)室積徂春~早春の章

「ゆく春の師系」はこれまで、(1)岡野知十(2)尾崎紅葉(3)佐藤紅緑と辿ってきました。今回はいよいよ「ゆく春」の創始者、室積徂春(むろづみそしゅん)です。 彼が師系から引き継いだものに、俳句の奥義に精通する勉学の姿勢があります。たとえば徂春の最初の師である岡野知十。彼は俳書収集家であり俳句史研究家でした。また自らを「新々派」と名乗り、当時「新派」であった正岡子規と作句信条の面で対峙します。当然弟子の徂春は知十の方針に従います。またしばらく後に徂春は、古今東西の詩歌研究に熱中した佐藤紅緑と活動を共にします。そうした過程において、徂春は自由な題材を心豊かに詠む、古典名作の機微にも通じる「主情派」の姿勢を強めていきます。   おぼろ夜や芭蕉蕪村の句の心  徂春 (昭和2年~9年の作;以下同)  憶良恋し実朝恋し春の宵  とびまけて鳴きまけてゐる雀の子   「ホトトギス主観派」と称される一派があります。飯田蛇笏、前田普羅、河東碧梧桐、等々、大正期のホトトギスの雑詠巻頭を飾った俳人達です。室積徂春もこの系列に入ります。この当時のホトトギスではまだ主観句が容認されていました。たとえば徂春の「鴛鴦(おし)の沓(くつ)魔の穿(は)き渡る古江かな」を高浜虚子は賞賛しています(評論「進むべき俳句の道」大正4年)。「単に客観の事実は、鴛鴦が水を渡つたといふのに過ぎないものを、斯く主観的に、理想的にいつたところに此句の生命はある」と。しかしながら大正末期以降、虚子が「客観写生」の姿勢を強化するにつれ、「主観派」はホトトギスを去らざるを得なくなります。この経緯については、2014年の金子兜太氏の著書「語る兜太―わが俳句人生」に興味深い説明がありますので、以下抜粋します。 「『客観写生』というのは、目で見て書くんです。じいっと見て書いて、心は入れない。そのくらいの厳しさで書く。一方、『ホトトギス主観派』と言われた人たちの考え方は心で見るんです。目で見るんじゃない。(中略)2014年現在の俳壇では『ホトトギス』に所属する人の数が多くて領域は広いけれども、『ホトトギス主観派』の人達がやっていた雑誌が、事実上、俳壇の主流を形成している。」 現代では一人の俳人の作品の中に、主観句もあれば客観句もあります。ホトトギスの俳人であっても、客観句ながら巧みに主観的印象を交えた句は多く見られます。そうした「二面性」に違和感を唱えることは最近では少なくなりました。しかし前述の当時においては、そのどちらに軸足を置くかは大問題であったようです。  春待つ燈明し相思の窓ふたつ  徂春  … 続きを読む

ゆく春の師系(3)佐藤紅緑

明治39年。紅緑は東京の俳句雑誌とくさ(木賊)の主宰に迎えられます。紅緑はその前年に自ら設立した大日本俳句研究会を主宰しており、一緒に同会をとくさに合併させます。同会の中心メンバーには徂春がおりましたので、これを機に徂春もとくさ誌の中枢に入ることになりました。ちなみに、同年8月発行号のとくさ誌には、徂春の名が「席上録」の筆者として登場しており、これが徂春の俳壇デビューと思われます。齢わずか19でした。 とくさ誌はもともと秋声会派(尾崎紅葉の一派)により運営されていましたので、日本派(子規を中心とする写生擁護派)とは相容れない関係にありました。当初紅緑も子規門四天王の一人として(他は碧梧桐、虚子、露月)、筋金入りの写生信奉者だったのです。ところが、紅緑の変化か時代の趨勢か、とくさ以降、紅緑は写生一辺倒の日本派に疑義を呈し、次第に主観句を前面に押し立てていくのです。 「一山の緑をしぼる清水かな」「藁屋根が吸ひ込む雨の暖かに」「その人の足跡に寄る波涼し」「祭とて病む子を母が梳る」「酒のめば悲しのまねば秋の暮」 作句年を問わずに紅緑句を並べてみました。こうして見てみると、全体に或る統一感があると言いますか、むしろ写生句にもそこはかとない主観が見えるようで、紅緑の激しい性格や鋭敏な感性から発する、誠実な作品群であることが分かります。 紅緑と言えば、一般的には「ああ玉杯に花受けて」等の少年小説を中心とした、大正期昭和初期きっての人気作家です。もとより明治30年代には、新聞連載小説の作家として名声を得ていました。一方俳壇においては、子規との盟友関係から発展分岐した主観句の第一人者であり、多くの俳論を発表した研究家でもありました。このように紅緑は、その後の俳句の一方向を先見した、実に重厚な存在であったと言えます。若き俊英徂春はこうした先達を持っていたのです。(文責:博幸)… 続きを読む

ゆく春の師系(2)尾崎紅葉

「徂春俳歴」によると、「尾崎紅葉に愛され傍ら正岡子規の朱を乞ふ」とあります。これは明治32年の記録であり、徂春13歳のことです。 紅葉と言えば、当時「多情多恨」「金色夜叉」の大ヒットで明治の文豪と呼ばれた存在です。俳人としての印象は薄いかもしれません。しかし多くの小説家が俳句に熱中した時代でもあり、紅葉もその例に漏れません。俳句結社「紫吟社」を結成し、子規の方向とも近い、もう一つの「新派」を形成していました。 「青簾好いた同士の世帯かな」「泣いて行くウェルテルに逢ふ朧哉」といった蕪村調の作品や、「口あいて佐渡が見ゆると涼みけり」のような即興を喜ぶ俳風もあり、少年徂春は影響を受けたと想像できます。 また紅葉は、門下に多くの俊才が集まったことでも知られています。泉鏡花、田山花袋、徳田秋声、等、有望作家を何人も育てました。遥かに下って、徂春は鏡花と家族ぐるみの交際となり、昭和2年のゆく春創刊号においては、鏡花からの寄稿を拝しています。文壇に明るい徂春の人脈。それはすでに十代の頃から築かれていたのです。 紅葉も子規同様、夭逝の人でした。「金色夜叉」を読売新聞に連載執筆中に没します。享年36歳。        … 続きを読む

ゆく春の師系(1)岡野知十

なつかしき師弟まねかん夜半の冬  徂春 12月4日はゆく春の創始者、室積徂春の命日です。掲出句では徂春が巡り合った多くの師について回想しています。 徂春の俳歴は、明治30年に岡野知十を最初の師とするところから始まりますが、何と当時徂春はわずか11歳でした。知十は当時、俳句「新派」であった尾崎紅葉や正岡子規とは主義の異なる「新々派」を名乗り、主情的唯美的な句風を確立していました。主情的とは客観よりも主観を重視すること。唯美的とは芸術的な美を愛でること。どちらも月並調に陥りがちな、客観俳句に対抗する立場と見られます。 その姿勢を裏付ける文章が、明治33年頃の知十の「俳諧風聞録」に見られます。曰く、「(子規に対し)弟子など作らうとするより、各自の特色を放つ方がよからう、會衆の多数を誇るのはイラヌ事ではないか。」 また、「(紅葉に対し)紅葉子の俳句の特調は誰も真似は出来ぬ。そのかはりあの調子では多数へ普及させる事は覚束ない」と、舌鋒実に鋭いものがあります。 俳書収集家でもあった知十の下、徂春は早くから教養を積み、師の闘争精神にも触れながら、俳人としての道を歩み始めました。その後も紅葉に愛され、佐藤紅緑とは兄のように慕う関係となり、15歳で子規庵に出入りし、途中演劇を目指した一時期を経て、二十代で高浜虚子との親交を深め、ホトトギスの編集を手伝った、とあります。このように徂春は、近代俳句の前半の多くの重鎮と接していたのです。その徂春が40歳で立上げたのがゆく春でした。 私達は普段師系というものを意識しませんが、俳誌は創始者の志に強く支えられます。そうした姿や形にこだわる習性が、他とは異なる自らの俳誌が存在する意味を持つのです。  … 続きを読む

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