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佐藤紅緑明治39年。紅緑は東京の俳句雑誌とくさ(木賊)の主宰に迎えられます。紅緑はその前年に自ら設立した大日本俳句研究会を主宰しており、一緒に同会をとくさに合併させます。同会の中心メンバーには徂春がおりましたので、これを機に徂春もとくさ誌の中枢に入ることになりました。ちなみに、同年8月発行号のとくさ誌には、徂春の名が「席上録」の筆者として登場しており、これが徂春の俳壇デビューと思われます。齢わずか19でした。

とくさ誌はもともと秋声会派(尾崎紅葉の一派)により運営されていましたので、日本派(子規を中心とする写生擁護派)とは相容れない関係にありました。当初紅緑も子規門四天王の一人として(他は碧梧桐、虚子、露月)、筋金入りの写生信奉者だったのです。ところが、紅緑の変化か時代の趨勢か、とくさ以降、紅緑は写生一辺倒の日本派に疑義を呈し、次第に主観句を前面に押し立てていくのです。

「一山の緑をしぼる清水かな」「藁屋根が吸ひ込む雨の暖かに」「その人の足跡に寄る波涼し」「祭とて病む子を母が梳る」「酒のめば悲しのまねば秋の暮」

作句年を問わずに紅緑句を並べてみました。こうして見てみると、全体に或る統一感があると言いますか、むしろ写生句にもそこはかとない主観が見えるようで、紅緑の激しい性格や鋭敏な感性から発する、誠実な作品群であることが分かります。

紅緑と言えば、一般的には「ああ玉杯に花受けて」等の少年小説を中心とした、大正期昭和初期きっての人気作家です。もとより明治30年代には、新聞連載小説の作家として名声を得ていました。一方俳壇においては、子規との盟友関係から発展分岐した主観句の第一人者であり、多くの俳論を発表した研究家でもありました。このように紅緑は、その後の俳句の一方向を先見した、実に重厚な存在であったと言えます。若き俊英徂春はこうした先達を持っていたのです。(文責:博幸)