「徂春俳歴」によると、「尾崎紅葉に愛され傍ら正岡子規の朱を乞ふ」とあります。これは明治32年の記録であり、徂春13歳のことです。

紅葉と言えば、当時「多情多恨」「金色夜叉」の大ヒットで明治の文豪と呼ばれた存在です。俳人としての印象は薄いかもしれません。しかし多くの小説家が俳句に熱中した時代でもあり、紅葉もその例に漏れません。俳句結社「紫吟社」を結成し、子規の方向とも近い、もう一つの「新派」を形成していました。

「青簾好いた同士の世帯かな」「泣いて行くウェルテルに逢ふ朧哉」といった蕪村調の作品や、「口あいて佐渡が見ゆると涼みけり」のような即興を喜ぶ俳風もあり、少年徂春は影響を受けたと想像できます。

また紅葉は、門下に多くの俊才が集まったことでも知られています。泉鏡花、田山花袋、徳田秋声、等、有望作家を何人も育てました。遥かに下って、徂春は鏡花と家族ぐるみの交際となり、昭和2年のゆく春創刊号においては、鏡花からの寄稿を拝しています。文壇に明るい徂春の人脈。それはすでに十代の頃から築かれていたのです。

紅葉も子規同様、夭逝の人でした。「金色夜叉」を読売新聞に連載執筆中に没します。享年36歳。

子規知十紅葉紅緑徂春の忌  博幸

徂春の忌日は12月4日です。