なつかしき師弟まねかん夜半の冬  徂春

12月4日はゆく春の創始者、室積徂春の命日です。掲出句では徂春が巡り合った多くの師について回想しています。

徂春の俳歴は、明治30年に岡野知十を最初の師とするところから始まりますが、何と当時徂春はわずか11歳でした。知十は当時、俳句「新派」であった尾崎紅葉や正岡子規とは主義の異なる「新々派」を名乗り、主情的唯美的は句風を確立していました。主情的とは客観よりも主観を重視すること。唯美的とは芸術的な美を愛でること。どちらも月並調に陥りがちな、客観俳句に対抗する立場と見られます。

その姿勢を裏付ける文章が、明治33年頃の知十の「俳諧風聞録」に見られます。曰く、「(子規に対し)弟子など作らうとするより、各自の特色を放つ方がよからう、會衆の多数を誇るのはイラヌ事ではないか。」 また、「(紅葉に対し)紅葉子の俳句の特調は誰も真似は出来ぬ。そのかはりあの調子では多数へ普及させる事は覚束ない」と、舌鋒実に鋭いものがあります。

俳書収集家でもあった知十の下、徂春は早くから教養を積み、師の闘争精神にも触れながら、俳人としての道を歩み始めました。その後も紅葉に愛され、佐藤紅緑とは兄のように慕う関係となり、15歳で子規庵に出入りし、途中演劇を目指した一時期を経て、二十代で高浜虚子との親交を深め、ホトトギスの編集を手伝った、とあります。このように徂春は、近代俳句の前半の多くの重鎮と接していたのです。その徂春が40歳で立上げたのがゆく春でした。

私達は普段師系というものを意識しませんが、俳誌は創始者の志に強く支えられます。そうした姿や形にこだわる習性が、他とは異なる自らの俳誌が存在する意味を持つのです。

なお、掲載の写真は、徂春が上京する前の故郷である福井、武生地方のものです。

大瀧神社銀杏黄葉